はじめに

    

 昨、平成14年秋の事である。
 筆者が60年前に卒業した、東京は中野区立桃園第三小学校の開校80周年記念同窓会が開かれた。

 その開催に奔走した一人に、横丁の中西リーチャンがいるが、その当時のリーチャンは筆者の顔を見る度に
 「同窓会に出てよね・・・・・・!」
 と、何回も何回も念を押した。

 当初、(どうせ出たって同じ学年の仲間は、1人か2人だろうから・・・・・)
 と思い、全く、余り気乗りのしなかった筆者であったが、或る時、我が家近くの路上で、同学年の井上於兔氏から声を掛けられ、
 「Otto が出るなら、僕もでてみようか・・・・・・?」
 という気持ちで、ヤットコサットコ、この同窓会に出席する事にした。

 ・・・・・・さて、その当日が来て、同窓会に出て見ると、筆者の最初の推察通り、僕たちの学年の出席者は井上氏と筆者の2人だけであった。

 さて、当日の催事の一つに

 「集団疎開を振り返って」

 とうインタビュー形式のプログラムがあったが、そのプログラムが舞台で流れている最中に、1級上のエーちゃんが僕のところにやって来ると、
 「・・・・・・今、あの当時、集団疎開に行っていた連中が中心になって・・・・・・おれ達が分散して疎開したお寺別の資料を集めてるんだけど、アッキューさん(筆者の往時のあだ名である)も一緒にやって呉れないかな・・・・・・? ・・・って言うのはさア・・・・・・俺達が疎開した普済寺の関係者って、ホントに誰も居ないからなんだよね・・・・・・」
 と切り出した。
 ・・・・・・栄ちゃんが、とても困ったような声を出していた為に、
 「ウ〜〜〜ン・・・・・・やってもいいけどさア・・・・・・!
 と、ハッキリと断らないで、イイカゲンな生返事をしたために、いつの間にか、筆者は、この企画に参加する事になってしまったのである。

 そして、この生返事の結果が、このサイトに、「落ちこぼれの集団疎開回想録」のページを開く直接の動機になってしまったのである。

   (つづく)

     
 ところで・・・・・・
 小学生時代、筆者はとにかく勉強が出来ない子でした。
 勉強が出来ないくらいだから、当然のことながら。勉強も大嫌い、おおよそ家に帰ってきてから、教科書を開いた記憶は殆ど残って降りません。

   

 私はものを書く事が好きである。
 今迄に数冊の本を書いているが、その何れも本と言う形のものとなっては残っていない。
 せいぜい残っているのは、以前、昆虫雑誌「月刊むし」に連載していた「ワンダフル・バタフライ」と、このホームページにアップロードしてある「馬でも分る空のお話」くらいのものである。