八ケ岳

高原野菜畑から眺める八ヶ岳は美しい・・・・中央の一段と低いコルが夏沢峠
夏沢峠から左手が急峻な南八ヶ岳・・・・右半分が女性的な北八ヶ岳だ。

           

八ケ岳って、どんな山??

まず初めに言っておかなければなりませんが、八ケ岳と言うのは一つの山ではなく、もともと八つもの多くの峰をもつ山の意味でした。と申しましても、正しく八つ峰があるという意味ではなく、多くの峰をもつ山を意味したものと思われます。

現在、八ケ岳の峰としては、14 の峰が挙げられますが、大きく分けて、急峻な南八ケ岳、なだらかな北八ケ岳に分けられます。

        

南八ケ岳

           (南より)      

山名

標高

編笠山
2,523 m
権現岳
2,704 m
赤岳
2,899 m
阿弥陀岳
2,807 m
横岳
2,825 m
硫黄岳
2,742 m

     

北八ケ岳

           (南より)

山 名

標  高

根石岳
2,550 m
天狗岳
2,645 m
中山
2,493 m
丸山
2,329 m
稲子岳
2,351 m
茶臼山
2,383 m
縞枯山
2,402 m
横岳
2,472 m
 
    

八ケ岳の生い立ち

今から約 100万年より前、地質時代からいうと洪積世のはじめには八ケ岳はまだ無く、佐久から西は諏訪湖の北岸まで一望の平地で、そこには大きな湖がひろがっていた。その湖の中に火山灰が積もったり土砂が流れ込んで椎積したのが八千穂村穴原や崎田、及び小海町本間西側台地で、さらに佐久町の花岡、四谷などの台地もこの洪積層の湖底椎積物である。

100 万年前頃から八ケ岳・蓼科山火山の噴火がはじまったが、八ケ岳火山が成長し山が高くなると、諏訪と佐久の境界ができた。八ケ岳の火山の活動が更に盛んになると噴出物も多くなったが、今から 80万年程前、八ケ岳の噴出物は相木や小海の谷に流れ込んだ。この頃の相木などの谷は今よりも幅が広く大きい谷だったが、この谷に押し流れ込んだ噴出物は冷えて固まり、川の流れをせき止めてしまった。このため南相木村では田屋より上流に湖ができ、北相木村では久保より上流に湖ができた。このほか小海町親沢などや川上村方面にも湖が生じた。そして、この湖の底に火山灰や上流から流れてきた泥が堆積した。火山噴出物が更に多く流れ出して高くなると、湖も更に深くなり、従って湖底に堆積した灰などの厚さもどんどん厚くなり、その厚さが 100m にも及んだところもある。

この火山噴出物のかたまったものを集塊岩といい、北相木村では久保部落より下流に見られ京の岩、栃原では川の両側にそびえたっている。また小海小学校のそばのトンネル、本間川入り口のトンネル、鑰掛付近のトンネルや福山田圃の西側の崖でこの集塊岩をよく見ることができる。また湖の底に火山灰等の堆積した疑灰質泥層は町民は滑(なめ)と呼んでいるが、なめらかな岩という意味であろう。このナメと呼ばれるやわらかい洪積層の岩は、北相木村では坂上部落の崖や白岩入り口の崖でよく見ることができ、南相木村では田屋より上流で見られる。「南佐久郡地質誌」では、これを久保層と呼んでいる。これは川の両岸に段丘をつくっているが、洪積世後の短期間に厚いナメ層ができたのは、八ケ岳の火山活動が盛んで火山灰が多量に降ったためと、湖が相当深かったからであろう。

今から 5万年程前頃に八ケ岳の活動は静になり、だんだんとおとろえていった。佐久に人間が住み着くようになったのは、火山灰の層(ローム層)がつくられつつあった洪積世の末期であろうとされている。そのためか先土器時代の人達の遺跡は表面の黒い腐植質の多い土の中からは出ないで、その下の赤土(ローム層)の中から発見されている。上の黒土の中から出るのは 1万年前からはじまった縄文時代のものである。

洪積世の終わり頃、部分的に土地が隆起したため川の侵食が盛んになり、相木や親沢にあった湖の湖面が下がって湖はだんだん浅くなり下流に侵食谷をつくり、急激に下刻作用(川が土地を掘りくぼめること)が進み、川が土地を掘り土砂を流して谷を深くしていった。このため谷いっぱいになっていた集塊岩はけずられて、現在みられるように川の両岸に高い絶壁をつくって残っている。

参考文献:浅間山の噴火と八ケ岳の崩壊
         菊池清人 著  (株式会社 いちい 発行)