「君が代」は
どのようにして作られたの?

   

 2002年(平成14年)秋の事である。
 その年の盛夏に他界された義父(家内の父親)の遺品の中に、昭和17年発行の一冊の古ぼけた本があるのに気が付いた。

     題して「海軍七十年史談」。
     著者は海軍技術中将 澤鑑乃丞

     
 

     
 とある。
 ・・・・・・古い書籍に興味を持っている遺族も他にいない事から、他の古書数冊と共に、この書籍は、当然の事の様に、筆者の手許に寄せられることになったが、同日、帰宅後、この書籍を開いた筆者は、歴代の海軍上層部ならびに、大東亜戦争・連合艦隊司令長官 山本五十六大将(当時・・・・・・筆者註!)の写真に継ぐ目次に目を通して行った筆者は、第三部の最初の章の目次を目にしたトタン、思わず
 「あっ・・・・・・!!」
 と、驚きの声を上げてしまった。

    

      
 ・・・・・・と言うのは、その章のタイトルに

     国家「君が代」の歌詞選出の由来

 と書いてあるのを見付けたからである。
 しかも・・・・・・以前から、「日の丸」の歌詞はどのようにしてつけられたかに興味を持っていた筆者が、まさか、こんな所で・・・・・・しかも、こんな形で、その由来の発掘に遭遇すると思ってはいなかったからである。

 筆者は、早速、踊るような気持ちで、そのタイトルの章がある 339 ページを開き、そのまま食い入る様に読み始めたが・・・・・・・

    
 

       
 兎に角、面白い!・・・・・・のひと言である。
 ・・・・・・読み終わったあと、筆者は余りの面白さに・・・・・・今日、色々な儀式などに於ける、「君が代」斉唱の是非が云々が議論されている現状を考慮し・・・・・・何れの側の意見の持ち主にも、参照できるように、このホームページ上に1ページを設けてみては、と思い、キーボードを叩く事にしました。

 それでは、この章の全文(わずか5ページです!)を以下にキーボードで叩き出しますので、どうぞゴユックリとご覧頂ければとぞんじます。

 ただ、惜しむらくは、元の原文は旧漢字で印刷されておりますが、旧漢字の印刷は現在のパソコンでは全く不可能な事!!
 その点と、万が一、みすタイプがありましても、お許し下さる様、あらかじめ、お願い致して、早速、原文掲載に移らせて頂きます。

     

 国家「君が代」の歌詞選出の由来

    
 世界に冠たる我が国歌「君が代」について、その由来と題する著書は数種ある。何れも作曲以降今日の名譜を得る迄の説明で、その歌詞を何人が選んだかに就いては更に知るものがないようである。
 抑々(そもそも<八岳註>)今日に於ける何々歌詞の選定の如きは、委員を設けるか、又は懸賞の方法によるかである。
 旧時はこれ等の選定の場合は、名望家の発意に基づくか、時にはふとしたチャンス、若しくはヒントを得て偶然決定することがあった。即ち我が国歌に「君が代」の歌詞が選出されたのは、偶然の成り行きから来たものと言ふべきである。
 老生が海軍省在勤中、屡々(しばしば<八岳註>)海軍造兵総監、原田宗助より承った国歌に君が代を採用した由来を記し、各位のご参考に供したい。

( P. 339 )

      
 明治二己巳年、英国の貴賓を饗応する為、場所は旧濱御殿(今の濱離宮)内延遼館と定め、当時太政官代はあったがまだ藩政時代なので、海軍務に於いて万事取計るることとなり、先づ各藩より英語に堪能なものを選び、接伴掛を命ぜられた。鹿児島藩よりは原田宗助、静岡藩よりは乙骨太郎乙(おっこつ・たろうおつ<八岳註>)その他数名であった。
 貴賓の来朝が程ちかくなった頃、英国赤隊の軍楽隊長フェントンより接伴掛(せっぱんがかり:今日では接伴係と書きます<八岳註>)へ問合せがあった。愈々(いよいよ<八岳註>)の場合、日英両国の国歌を奏する必要がある、日本の国歌は如何なるもので宜しいかとのことである。ところが英語は相当素養はあるがまだ国歌といふものを承知していない。且つ本邦に於てはこれ等の規定など耳にもしなかったので、何れも顔見合わせ、どうしようかと協議の上、軍務官に伺出る外致し方がないと決定し、原田接伴掛は直ちに指揮を仰ぐ為、軍務官に駈けけつけたところが、折柄何か幹部は重要会議中であった。急用の旨を申入れたところが、川村純義が縁端に立出られ、原田より国歌について英国楽長よりの申出の委細を聞き取られ、些かと興奮の気味合で
 「おはん方を接伴掛としたのは、今度来朝あらせらるる英国貴賓饗応に付て万事不都合なかんごつ取計らって貰う為じゃ。それを何ぞや、そげん事を一々問合せに来る必要はない。何ご

( P. 340)


つによらず掛員が相談の上、饗応については総て手落ち無くよかように処弁し、御来著も間近きことぢゃからその辺を心得、手落ちのないよう取計ろうてよか」
 と、ケンモホロロの挨拶で急いで会議室へ行ってしまった。
 原田接伴掛はやむなく濱御殿へ帰り、その旨委細をほうこくしたので掛員は頗る閉口。然らばどうしようかと種々協議の末、乙骨掛員の発意で何か古歌中より選定しようといへば、一同はこれに同意した。幸ひ乙骨掛員の思い浮かべたのは、旧幕府時代に徳川将軍家大奥に於いて、毎年元旦に施行された「おさざれ石」の儀式である。その時唱ふる歌に

 「君が代は千代に八千代にさざれ石の
         いはほとなりて苔のむすまで」

 とある。これなら 陛下に対し奉り聖壽万歳を壽ふぎまつることになって、最もよろしいだろうと評議が一決した。(この儀式は国主大名にも同様の行事があったといふ)而してその歌詞の唱へ方はどうしようかといふことになり、原田掛員の申出に、我が鹿児島に於て演奏する琵琶歌中に蓬莱山と言ふ古歌があり、それにも又君が代の歌詞がある。今は猶予すべき時ではない。僕がその節で唱ってみようと、「君が代」は云々とこれを演じた。早速フェントン楽長

( P.341 )

       

を招き数回繰かへす内に、楽長は節々に注意し、作曲出来せりといって楽隊員を集め、その訓練を開始した。これが即ち我が国歌「君が代」が世の中に出現した由来である。
 右のような成行きで国歌も出来し、貴賓饗応に対する諸儀式も当時としては総て滞りなく終了し、我が面目を全ふしたのは幸甚である。
 翌明治三庚午年、越中島へ行幸(天皇が出かけること<八岳註>)あらせられた時、この国歌を吹奏し奉ったと言ふ。
 フェントンが、我が海軍の教師となり、楽隊員へこの君が代を稽古させ、毎年の海軍始その他に臨御(天子が出席すること<八岳註>)の時はこの国歌を吹奏し奉った。元よりとっさの間に出来し、その節たるや琵琶に由った事とて音律に対する批判も多かったであろう。ここに於いて中村(佑庸、前姓長倉)海軍軍楽長の考案で、楽譜改正之儀上申をなし、「楽譜改正委員」を設けられ、ドイツ教師エッケルトの丹精よって遂に今日のようなものとなり、世界に於ける国歌の随一とたたへらるるに至った。
 因にしるす。旧徳川将軍家年中行事の内、毎年元旦大奥に於て施行せられた儀式の内「おさざれ石」と言ふは、御台所(みだいどころ=御台盤所の略、将軍・大臣などの妻のこと<八岳註>)が将軍家へ年賀を申延べらる前に、若水で手水をつかひお清めの式を履行するのを言ふ。御台所は三ケ日は毎朝七つどき(午前4時)に起床せられ形の如くお化粧等があって装束を召した。かくて用意が整はれ、廊下に毛氈を敷き、中央に盥(たらい<八岳註>)を据え、その

( P. 342 )

     

中に石三個とゆずりは、裏白(うらじろ<八岳註>)、ならびに田作を加へて未明に行ふ式である。燭台を用意し御台所には盥の正面に著座、右方には中老一名が水注を前に置き、左方には小姓一名が鼻紙台に手拭をのせて差し控える。中年寄(なかどしより<八岳中>)一名が盥を中にして御台所と差し向かいに著座する。中年寄りの発声で、
 「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を唱ふれば、御台所には直ちに
 「いわほとなりて苔のむすまで」
 と下の句を継がる。この時中老が水を注ぐ、小姓が手拭を捧ぐ、これにて「おさざれ」石の儀式は終了する。それより御台所は将軍家歴代位牌の間に参拝、総て将軍家に新年の祝詞を言上せらるるのである。
 接伴掛静岡藩の乙骨太郎乙(おっこち、たろうおつ)は、当時静岡藩の沼津兵学校の二等教授方で、英学科専門である。後に海軍省訳官を勤めた。
 原田宗助は、当時鹿児島藩に於ける英語達者の士で、明治四年、東郷平八郎その他数名と共に海軍生徒を命ぜられて英国へ留学し、新城(ニューカッスル)市アームストロング会社に於いて造兵技術を実修し帰朝後は海軍兵器局より同製造所技術官となられ、海軍造兵総監に累進し、東京海軍造兵廠長を勤務せられた。

      (昭和十六年九月)

   
( P.343 ) 

        

(完)